2026/01/02 22:26

 羽田町の鋳物・南部鉄器は今から約900年前の平安末期に藤原清衡が近江の国より鋳物師団を招聘されたのが始まりとされ、藤原平泉文化が咲いた頃すでに水沢羽田付近には鋳物師の集団が有り、数々の文化財が静かに眠っているとされてます。

 約900年の伝統を継承し、中本たか子の小説「南部鐡瓶工」に描かれた岩手県南唯一の鋳物集団生産地です。
藤原の清原氏が今は江刺岩谷堂の豊田城に入り、この周辺は北上山系の銅鐡資源に恵まれ、良質の粘土、砂が有り、北上川舟運も利し鋳造地として選ばれたと診られます。
 その頃の北上川は、現在の位置より北にあり北上川の移行の影響で現在の羽田町田茂山方面に南下したと、今に残る鉄屑などからわかるとされます。
 それから時代が藤原氏の衰亡後、葛西氏が奥州総奉行になり、その時代に及川氏の祖が葛西氏を頼って奥州に下向し家臣になり、県南に一族が栄え、鋳物師も多く出て羽田地方に移住してきました。そして時代も葛西氏から伊達領の管轄に入りました。
 江戸時代に入り伊達藩は、領内の鉱山を藩営とし、羽田田茂山に株仲間を置き鋳造の統制と保護の元、梵鐘等の仏具から銅器、鉄器類が作られ、一時不況の時期もあり、享和、文化の頃は鍋の需要が増え鋳物工場が繁栄しました。そして幕末、明治大正昭和と時代が移って現在になります。
 及鉄鋳造所宝鉄堂の及川家祖先は享保の時代で梵鐘工の及川源右エ門が祖先で私で12代目になります。